3月21日

僕は1997年、長尾家の三男として生まれた。

父は時代を先駆け、インターネットを駆使した経営コンサルタントとして25歳で起業した実業家で、母は元教師の専業主婦である。

 

幼少期から2人の兄と喧嘩しながら過ごす。

出来の悪い兄はいつも母に怒られていた。

母に息子の教育は任せるとして仕事にかかりっきりになっていた父は、息子が不始末を起こす毎に母を叱責した。

 

いじめられっ子だった兄がゲームセンターに通い始め、週末のゲームセンター通いが兄弟の楽しみになったのは僕が小学校低学年の時である。

 

当時のゲームセンターはまだどこだって喫煙OKで、ストリートファイター(おそらく3rdだったと思う。カッコいいOP映像が印象に残っているから)や鉄拳の筐体には必ず黒い灰皿が置いてあった。耳が焼けるような騒音と紫煙が燻る。大人の遊び場に足を踏み入れたんだという背徳感で、僕はまるでこの世の全てを悟った悪いオトナになったかのような気持ちになった。

 

そこで当時稼働していたMELTY BLOOD(アクトカデンツァ)と戦場の絆にどハマりしていたのだが、兄が母親の財布から金を盗んでゲームに溶かしていたことが発覚し、資金源を失った僕らの足は次第にゲームセンターから遠ざかっていった。

 

時を経て、僕はニコニコ動画経由でRADWIMPSにハマり、中学生になった。

 

広島県ではコアなアニメ放送や、マニアックなアニメの劇場公開、ビッグアーティストの公演だって、ディスクユニオンさえ無い。

当時は配信サービスも無く、ラディカルに文化資本が欠如していた。周りの人間が聞いているのはいきものがかり湘南乃風だ。電車に乗って1時間で行けるのは、せいぜい終わった品揃えのPARCOか、県内唯一のアニメイトである(それでも中四国でPARCOやらアニメイトがあるのは広島だけだったので、隣県からはそれら目当てに人が来た)。それでもその“欠如“にはその内側では気付けない。文化的に劣った環境にいるという自覚がないまま、「僕は、アニメと音楽(RADと9mmとゆらゆら帝国とか、しょせんその辺)に詳しい、極めて文化的で知的な男」と自認していった。

 

高校生になり、文化祭でビリビリのTシャツでベースを弾きながら絶叫していた僕だが、

それを面白がる人間は周りにいなかった。音楽やアニメやマンガのことは分からないまでも、長尾がそれ等に詳しい人間であるので、こいつのやっていることは正しい事なんだろう、という空気感があったと思う。

 

Tシャツビリビリクラクションベイビーにご満悦だった僕は、遊び呆けていたわけでも無くむしろ真面目な高校生だった。

基本的に週七活動するハードな部活動で、土日も殆ど友達と遊んだ記憶がない。平日の朝も7時に音楽室に行ってヴァイオリンの自主練をしていた。そんな調子だったので、ボウリングやカラオケなんかも友人とした事がないと思う。

ただ僕の娯楽は部活動の後に自転車で音楽スタジオに行って酷い雑音を鳴らす事だった。

 

中高6年間通い続けた個人塾の近くの裏山で童貞を卒業した僕は、そこから個人塾の倉庫で、セックスしまくるようになる。誰とでもヤると噂のあった陸上部の女だ。

(そういえばあと一発くらいヤリたいな、と思ってLINEで連絡先を調べたが、いつの間にか失っていた。)

 

自称進学校の中で唯一東大京大を目指せる学力(に届きそう)だった僕は、気付けば京都大学工学部志望に仕立て上げられた。志望校を下げられないプレッシャーの中で徐々に成績が伸び悩み、ドンドンセックスに依存してしまう。

センター試験の前日の金曜日、気合注入のバックを塾倉庫でかましていると、ゴムが破けたような不思議な感覚をチンに感じた。その日の夜ほどコンドームについて調べた日は無いだろう。明けた翌日、僕は英語で過去最低点を取った。

 

センターでコケた僕はその後の試験も大体コケて、早稲田大学に拾ってもらった。

 

意気揚々とベースを担いで乗り込んだのは、

当時「ZAZEN BOYS」の動画を見て知っていた早稲田ロッククライミングというサークルだった。

(本当はオーケストラをやろうと思っていたんだけど、団員がインキャすぎて辞めた)

 

おそらくここが僕の人生の転換点だったであろう。僕よりも音楽に詳しい人が二人以上同じ空間にいる、というのを初めて体験したのである。音楽に詳しいというか、本当に僕の知らない音楽しか聴いていない人間がこんなにもいるんだ、こんなにも音楽の趣味に多様性があるのだと驚いた。

ギター2本とバンドをやったことさえない僕は相当に面食らってしまった。なにせ同世代で一番音楽に詳しいのは僕だと思っていたから。

フジファブリックというバンドの曲を流して「エモい〜」と称揚する感じ(共通認識のアンセムをみんなで言語として消化するノリ全般)や、各高校の軽音部でならした腕自慢たちがイキり合う感じ、地元のライブハウスは◯◯の出身ライブハウスで

〜、という会話(広島にはまともなライブハウスもあんまりない)、「my new gear..」と買った楽器の写真をSNSにあげる文化など

全て本当に意味不明だった。

軽音部でのヤンチャ自慢、高校生の時の音楽エピソード、まるで太刀打ち出来ない。何せ僕は広島でビリビリのTシャツを着てThee Michelle Gun Elephant絶唱していたのだから。

 

あのビリビリTシャツの写真を人に見せて爆笑された時、僕の身体にはもう一つの孔が開いて、何かが分泌された。自分の価値観が、日本社会の仕組みの端の端で作られたものだと体感で理解したのである。

 

東京生まれは言わずもがなその幸せに無自覚だが、埼玉だろうが千葉だろうが神奈川だろうが首都圏は一緒である。

自分がいかに恵まれた文化資本の下、そしていかに恵まれた人種に囲まれて自分のやりたい事が出来たか、よく噛み締めて欲しい。君たちは10歳の頃から、日本で最もエキサイティングな駅全てに電車で1時間で降りたてたのだ。

 

「やりたい研究があって大学を選んだ」という類の話も虫唾が走る。

それは、研究内容で大学を選ぶという同級生が少なからず自分の周りに1人いたりとか、身の回りの大人の職種の多様性であるとか、そもそも大学受験にそこまでの解像度を持っている両親がいるとか、首都圏という母集団バイアスによって得た判断方法なのだ。

にもかかわらず、自分の取捨選択の結果として捉えている輩が多い。

 

地方都市なんて、教師だろうが「バカとブスは勉強しろ、名門に行ければ人生うまくいく」くらいの解像度でしか社会の仕組みを教えてくれないのだ。

 

そして僕は今、JTCに勤めている。

家賃補助はない、基本給も高くない。

 

ケツ穴脱毛を始めてから1年、ずっとケツ穴は出血しているし、ハゲ予防の薬とコンタクトと美容院代、虫歯治療、マッチングアプリ会員費、女に嫌われない小綺麗な服と脱毛のローンで可処分所得は毟り取られていく。

 

それでもなんとか恋愛市場の中でプレゼンスを維持する為に、自己に課金を続けるのだ。

そうでもしないと、いつか誰からも見向きもされなくなるだろう。

(奢り奢られ論争、結局女が見向きするのは女と同等以上に課金した男だけなので、そもそも前提が誤っている)

 

この東京で僕のような田舎者がなんとかしがみつくには死に物狂いになるしかないのだから。